なぜ僕は東京の山の研究に熱心では無いのか。

なぜかと言うと、無理だからです。

例えば、昔の文献を読んでみて、すごく面白い事がいろいろ書いてる。
その事を多くの人が知らないので、それを見る事で知った気にはなれるし
それで本をいっぱい買ってみて、いっぱい読んでみたくもなるけど、
何冊か読んでいる内に、整合性がとれてない部分が多い事に気づく。

整合性がとれてない部分が、どういう意味を持っているのか
僕には判断が出来ない。自説を唱えるためには、それなりの深い知識が必要だからだ。

これは僕も陥りがちなんだけど、勝手に解釈して、妄想して自説を作る人が多い。
でもその自説はちゃんとした知識の裏付けがあって、筋道を立てて説明できるかというと
ほとんどそうではないし、ほとんどの人は出来ない。出来たとしても◎◎の本に書いてあったから、程度のものだ。でもすごく難しいわりに、その説が一度解き放たれると、
予めそれが、ひとつの可能性だよという前置きがあるにも関わらず
それが本当の事かのように振る舞ってしまう事がある。これはもう伝染病みたいにたちが悪い。嘘の情報が広まってやがて本当の事を隅へとおいやってしまう。

たぶん、整合性がとれてない部分はこういう情報が多く含まれている。
でも、もうそれがどうであるかを判断ができないから、
僕に出来る事は、事象や書かれていること、文献を引用して列挙する事しかできない。

たとえ僕が奥多摩の珍しい古本を100冊持っていたとしても、
その知識を持っていたとしても、僕は奥多摩の研究者になったとは言えない。
なぜなら、それは人が研究した事をなぞっているだけにすぎないからだ。

本当の研究者は地元に足繁く通って、地元の人と深く交流をして、
まだ世に解き放たれていない古文書や地図を発掘し、お年寄りの話しを聞ける人だ。
そういったフィールドワークをしない人は、ただの山オタクなのだ。
僕はそれがわかっているし、それは僕には出来ない事がわかっている。
その情熱はないし、他にやりたい事が僕にはあるからだ。
だいたい、古文書を読めるような学識が不足してるからね。
歴史も知らないし(そこまで興味ない)
まぁ、どこかの大学が僕を雇ってくれて、一日中奥多摩の研究ばかり出来るなら
やれると思うけどね(そんな事ありえないからね)

僕はもともと研究には熱心ではありませんと公言してるし、
知らない事、分からない事を恥ずかしいとは思ってない。
なぜなら最初から初心者として振る舞っているし今もそうだから。
知ったかぶりをしない、知った気になってない・・というのは僕の良い所だと思う(たぶん)
でも、ちょっと知ったかぶりをしてる時もあるかもしれない・・(笑)

東京の山を登ったり、本を読んだりしてる内に、
知れば知る程に、余計にわからなくなってくるんです。
それが僕の率直な感想なんです。

おわり。



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